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8月のサイレンと私の母
8月のサイレンと私の母
ブログを更新するのも 久々で ご無沙汰してます。

またまた今年も8月9日11時2分の長崎のサイレンを聴きました。
このサイレンを聴くたびに思い出されるのは 原爆投下はもとより
私の母のことを思い出してしまいます。


私の母

私の母も被爆者です。
母と同じ年齢の方も 年月が過ぎ去るとともに 
顔には深い原爆体験とともに年齢を思わせるしわが 深く刻まれています。

今も生きてれば 被爆体験を体験者と一緒に 語り部として 皆様の前に 
顔を露出して被爆体験を お話してたかも知れないと
思って 思い切って 母の写真を載せました。

ピカッと夏の空が光った と 同時に隣にいた友人が 雷かな? 
と窓越しに真夏の空を眺めたときに ものすごい風とともに隣の友人は 
母の目の前から姿を消したそうです。

見つけたときは 表現できないほどの無残な人間と思えない姿で見つかったそうです。

母は分厚い壁越しにいたので 無傷でした。

それからは 帰ってこない知人友人達を姉達と一緒に爆心地の浦上まで探しにいったそうです。 
浦上川には水を求めて多くの人たちがいましたが その人たちも 
次々と亡くなり浦上川は死体の山となっていったそうです。

背中に赤いマントを羽織った人がいると思ったら 見間違いでした 
背中の皮膚が焼け爛れて肉が見えて赤くなってたそうです。
そしてあっちこっちでは 死体を焼く光景が見えて 
ウジがわいて何も施しようがない傷病者や放置された死体の山 

そのなんとも表現できない 臭いとが交差して この世とは思えない断末魔だったそうです。
そんな母も私たちが子供のときに 原爆が原因かどうかはわかりませんが
あの世とこの世を行き来しました。

母が私たち兄弟の前から いなくなる ということが 
子供だったからでしょうか 想像できませんでした。 

だから医者がご臨終です と父に告げたときも 
死んだなどとは思えず ただベッドの横で弟とともに
立ちずさんでたものでした。

叔父が私に 母を呼び戻せというのです。 
何のことか最初は理解できませんでした。
が いつの間にか 弟と二人で必死になって おかあさん おかあさん おかあさん
と何度も 何度も 叫んでました。

そしたら 返事したのです。 医者は奇跡が起きたと つぶやいてたのが印象的でした。
それからが大変でした あの世と この世を混同して 話すのです。

だれそれさんたちが お見舞いの来た と話せば 
母の姉が 「みんな 死んだもんばかいタイ」 

それからです 今まで被爆体験を話さなかった母が 私たちに語るようになったのです。

それから 近所の母と仲良かったおばさんが 22歳になった子供を 白血病で亡くしたとき
母に 半狂乱になって 泣き叫びながら語ってました。

何であの時(原爆が投下された翌日)乳飲み子だった娘を背中におんぶして 
浦上まで親戚を探しに言ったのだろうか 
娘を 殺したのは私だと泣き叫んでたのが

私は、今でも幼い子供ながら 脳裏に焼きついて離れません 
これを書きながら また当時を思い出して 泣けてきました。 

そんなときも 戦争が悪いんだ とか 原爆を落とした人たちが悪いとか 
アメリカが悪いとか 言ってたと記憶がありません。

日本人は憎しみを超えて 戦争の悲惨さを語り継ぎ 
他国のように政治的に利用して
人民を国民を民族をコントロールするでもなく 

平和憲法を持った国は珍しいのかも知れないですね。



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