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長崎市の城跡 2
城古趾(しろのこし)

長崎甚左衛門の城である桜馬場城と呼ばれてた城古趾。(シロンコシ)
グリーンの長い建築物は桜馬場中学校その上のうっそうと茂る小高い丘が城跡

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日本全国がキリスト教に支配されるのではないかと危機感を感じた豊臣秀吉は、キリシタン排除のための15世紀の中頃の長崎の歴史には最初で最後の大きな合戦がありました。 大村純忠率いるキリシタンン武士と豊臣家の命を受けて深堀家の反キリシタン武士との間で大きな遺恨を残す戦がこの土地であったのです。

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そして、おどろおどろしい、どろどろとした戦で戦死した人間の怨念が400年の年月を過ぎてもジバク霊としてこの土地にいついているような錯覚を感じます。

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最も信頼してた友人の裏切りにより無念の壮絶な死をとげた武士達がいまだに強い怨念となってさまよっている地域がたくさんあるのです。

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それは、大きな石に座ったらその石は落ち武者の墓石だったり 駐車場作りで大きな石を動かしたばっかりに、原因不明の発熱で苦しんだり、精神をわずらったりそして極めつけは 大きな石が邪魔なので石を割ろうとした人が原因不明の病気になり死亡したりたくさんの逸話を聞かされたり見たりしてきました。

この戦乱で亡くなった勇者達を祀ってるお寺があります。
そして、この地は、日本で始めてタバコが栽培された土地でもあるのです。
春徳寺画像  トードス・オス・サントス教会跡(長崎県指定史跡)

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1613年(慶長17年)に出された禁教令により、桜馬場城の下にあるトードス・オス・サントス教会は閉ざされて春徳寺として仏教のお寺が今でも戦で戦死した人たちを供養しているのです。境内には、現在もキリシタン(切利支丹)井戸が残っているそうです。

日本全国回っても寺町というお寺がたくさんある地域は長崎だけと
思ってたら いたるところに寺町があるのを ご指摘があるまで気づかず
教えてもらうまでは 長崎だけと勘違いしてました。

長崎の寺町は、キリシタン文化を排除するための政策だったのです。
それだけ15世紀中旬から後半にかけての長崎の地はキリスト教が普及していたのです。

私には、キリシタンの落ち武者が鳴滝から、または片淵から 西山を越えて古賀方面のキリシタンの里である中里へ落ち延び 農民の落ち武者狩りに遭いながら大村純忠の下へ逃げのびる武士達の阿修羅の姿が見えてくるのです。 

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数年前、ある見知らぬぼろを着た老人が私に語ってくれました。
この中里の地では、地面を掘り起こせば十字架が出てくるそうです。それはキリシタンの墓だそうな、そしてキリシタン狩で壮絶な死をとげた人々の供養のためのお寺や小さな祠(ホコラ)があると聞かされたのが偶然か私が来るのを知ってて待ち構えて話してくれたのか定かではありません。 
確認のため写真を撮ろうと思い、そしてもう一度キリシタンの話を聞きたくて、ぼろをまとった老人を探しましたが 中里の近所の人は見かけたことがないということでした。
 
子供の頃、山の中でホコラのお供え物を食べたときのある友達がキツネのまねをしたり、原因不明の発熱を発症したり不思議なことがたくさんありました。
もう2度とこの城跡にくることもないと思いながらどこの誰の墓石かも知らない遠い昔からあるであろう複数の墓石が倒れているのを見て見ぬ振りして足速にくだっていきました。

-the end -
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城跡
城古趾(しろのこし)
昔昔 長崎市内にもお城が存在したのです もう地元の人間にも忘れられた存在ではないかと思われます。
私も子供の頃は、何故この土地がシロンコシと呼ばれてるのかもわからずに遊んでいました。

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ロッククライミングに適した岩が今でもありますが、よくこんな絶壁を中学生ながら登ったものだと我ながら感心しています。今では登る能力も気力もないことを確信しています。

鎌倉時代末期の頃の当時の長崎の地形は、現在の長崎市街はほとんどが海で、今の長崎県庁前から長く突き出た岬が“なんか岬”と呼ばれ、この地形から長崎と地名がついたと語り継がれています。
この地を支配した豪族長崎氏の名前もこの地名の由来から名づけられたといわれてます。

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長崎氏は、現在の桜馬場中学校に館を構え、その裏側に位置する、小高い丘陵は、長崎港が見渡せ、外敵を阻止するには格好の天然の地の利を生かした強固な砦を設けていたのです。それは鶴城と呼ばれ夫婦川町、桜馬場、鳴滝、中川、片淵辺りが城下町だったのです。
今ではシーボルト通りと呼ばれ地元の人には親しまれています。

攻めるには小高い丘が邪魔するし、城の背後をつくにも絶壁の山肌を制覇しなければならない。
この城跡にたたづんでいると合戦の声が私の耳の奥に聞こえてくるのです。

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この道は当時のままに残ってる貴重な遺跡ではないでしょうか。
ここから反キリシタン武士達が攻め登れば、身動きがとれなくなり、
キリシタン武士のやりや弓矢の武器で次々と討ち果たされ、
長期戦となっていったのです。

武者震いと勇者の血で血を洗う地獄のような肉弾戦が私の脳裏に焼きつき武者震いと共に当時の荒武者達が、私の魂にうったえかけてくるのです。
それは、その昔1613年(慶長18年)キリスト教の禁止令が施行された以降の頃のはなしです。

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当時のキリシタンを弔った後かな
キリスト教信者には改宗を強制し、宣教師や信者に対し激しい迫害がおこなわれたのです。
キリシタン大名大村純忠の家臣、長崎氏と豊臣家の家人深堀家と天下分けめの代理決戦があったのも日本の歴史の中にも忘れられていて、城跡だけが、誰も手をつけることができずに荒れ果てたままに当時の面影をのこしているのです。

血で血を洗う、裏切りの中から発する憎しみのうめき声やいわく付きな話がこの地には無数に転がっています。

    続く
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